遣欧少年使節団


天正遣欧少年使節団

1582年(天正10年)に九州の キリシタン大名 、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された4名の少年を中心とした使節団。イエズス会員 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ が発案。8年に及び当時のヨーロッパのキリスト教世界の中心であるポルトガル、スペイン、イタリアを見て歩き1590年に帰国。使節団によってヨーロッパの人々にキリスト教が広まった日本の存在が知られ、活版印刷機を持ち帰りいわゆるキリシタン版日本語書物の印刷が行われる。 ヴァリニャーノ によると使節の目的は、ローマ教皇とスペイン、ポルトガル王に日本宣教への援助を要請することであり、また若い日本の少年達にヨーロッパのキリスト教世界を目の当たりに見せその体験によって真のキリスト教の正当性、偉大な神の存在を少年達に広めさせることにより、一層の布教に役立てたいということであった。しかし帰国した時はすでに禁教の時代に入っていたものの目的は果たされた。


使節団

少年たちはセミナリヨで学ぶ生徒の中から選ばれた4人。年齢は13から14歳であった。

伊東マンショ 大友宗麟の名代。宗麟の血縁。司祭に叙階される。1612年長崎で死去。
千々石ミゲル 大村純忠の名代。純忠の甥で晴信の従兄弟。
中浦ジュリアン 司祭に叙階。1633年長崎で穴づりの刑によって殉教。2007年に福者に列せられる。
原マルチノ 司祭に叙階。1629年追放先のマカオで死去。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父 ローマまで同行の予定であったがゴアに留まる。
ヌーノ・ロドリゲス神父  ヴァリニャーノ神父と交代してゴアから一行に加わる。
ディオゴ・メスキータ神父 通訳として同行
ロレンソ・メシア神父
オリヴィエーロ修道士

ジョルジェ・ロヨラ修道士 日本人で使節の教育係
コンスタンチノ・ドラード 日本人の印刷技術員として派遣
アグスチーノ 印刷技術員の日本人少年


使節団の経路


1582年
天正10年
2月20日 長崎港を出港。
  3月 9日 マカオ着。ゴア行きの船に乗換え、風待ちのため滞在。
1583年 12月20日 マラッカを経てゴアに着。
1584年 8月10日 リスボンに到着。サン・ロッケ教会に宿泊。リスボン近郊シントラのアルベルト・アウストリア枢機卿に宮殿で接見。
  11月25日 スペインへ入りマドリードで国王フェリペ2世の歓待を受ける。
1585年 3月 1日 地中海マヨルカ島を経由しイタリアのリヴォルノに到着、トスカーナ大公国に入る。
  3月 2日 午後1時にピサに到着。ピサ宮殿にてトスカーナ大公フランチェスコ1世に謁見。その晩、舞踏会に参加。ピサでは斜塔や大聖堂を訪れる。
  3月 6日 サン・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教会で聖ステファノ騎士団を見学。灰の水曜日にあたりトスカーナ大公とともにミサで灰の塗付を受ける。
  3月 7日 フィレンツェに到着。ヴェッキオ宮殿に宿泊。
  3月11日 フィレンツェ近郊にあるプラトリーノの別荘ヴィッラ・デミドフに滞在。
  3月23日 ローマに行き教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられる。
  5月 1日 グレゴリウス13世の後任のシクストゥス5世の戴冠式に出席。
  6月 3日 ローマを出発。ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどを訪問。
1586年 4月13日 リスボンを出発。日本への帰路につく。
1587年 5月29日 ゴアに到着し待受けていた ヴァリニャーノ に再会。原マルティノはコレジオで演説をする。この年国内では5月に大村純忠が、6月には大友宗麟が相次いで死去、7月秀吉のバテレン追放令発布とキリスト教に対する逆風が吹き始める。
1590年 7月21日 使節団帰国。長崎に帰港。
1591年
天正19年
3月 3日 特別に許可され聚楽第で秀吉と謁見、西洋で学んだ ジョスカン・デ・プレの曲 を演奏する。



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