アシジの聖フランシスコ
アシジの聖フランシスコ
肖像画
アシジの聖フランシスコ(イタリア語ではフランチェスコ)St. Francis of Assisi, San Francesco d'Assisi (1182年9月26日 - 1226年10月3日) 本名:ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Pietro di Bernardone は、フランシスコ会の創設者、修道士。イタリア ウンブリア州アシジ生れ。聖キアーラ Santa Chiara(聖クララ St. Clara:フランシスコ会の女子修道会、クララ会の創設者)とは同時代にアシジで生き互いに尊敬しあった者同士で後に双方が列聖された。
フランシスコの父はピエトロ・ディ・ベルナルドーネという裕福な織物商人。母ピカ・ブールモン Pica Bourlemont はフランス・プロヴァンス出身の貴族家の娘であり、夫ピエトロが商用でフランスへの旅先で出会い結婚した。フランシスコが生まれたのは父がプロヴァンスへ行き留守中のことで、母はサン・ルフィーノ聖堂の馬やで彼を生み飼いば桶にねかしジョヴァンニの名で洗礼を受けさせた。父は帰国するとフランスとの関わりが深くフランスのものは何でも好み、妻もフランス出身であったことからフランシスコ(フランス人の意)と呼ばせるようになった。
放蕩息子
アシジ遠景
フランシスコは当時の習いとして学校教育は受けなかったが、フランス語とラテン語をサン・ジョルジョ教会の司祭から学んだ。父譲りで商才があり父の片腕として商売を手伝っていた。非常に陽気な性格でプロヴァンスの吟遊詩人趣味にのめりこみ、持ち金はすべて使い果たして好き勝手な生活をするようになっていた。吟遊詩人風の派手な衣服をあつらえて楽器を奏でて歌いながら街を練り歩き、はては父の物まで持ち出しては近隣の町から仲間を集めて遊興と酒宴に明け暮れていた。父ピエトロが彼に期待した事とはまったく違う放蕩ぶりであったので、父との対立が深まっていった。
この当時イタリアでは国内が統一されていなく都市間では覇権を争い、王と諸侯間、貴族・支配層と下層階級間でも対立が深く度々争いが起こり混乱の世であった。
戦わずして帰還した
フランシスコ像
フランシスコはアシジのためにペルージアとの戦いに参戦するが1202年アシジは敗北し彼は捕虜となり、ペルージャの牢獄で1年以上過ごした後解放されアシジに帰還した。1203年からはまた元の快楽と酒宴の生活に戻り、1204年(22才)、フランシスコは再び軍隊に加わり戦場へ向かおうとするが、途中アシジ近郊のスポレートで熱病にかかり夢うつつのなかで神の声を聞いた。次の朝、装備をつけ馬にまたがりアシジに引き返した。アシジに帰り療養を続けている間に遊興の毎日が虚しく感じられて彼の世界観、人生観は徐々に変わり始めた。1205年(23才)再び主の啓示を受け自分の姿を直視し始めた。相変わらず仲間と遊び暮らしつつ、ある時は洞窟に隠れ孤独の祈りをし、聖堂修復の労役をするようになった。
霊的、内面的生活
遊び仲間との現世的快楽に少しも喜びを覚えず満たされることはなかった。祈ることによって神から示された貧しい者、病む者の方へと目が移り物乞いに有り金全部を与えもした。貧しいとはどんなことなのか体験するため、自分が金持ちの放蕩息子だと知られていないローマまで行った。財布にあった金貨、銀貨全部を聖ペトロ大聖堂で献金し、無一文になるとボロをまとい物乞いをしてみた。
1206年(24才)頃には内面的な黙想生活に入った。神の意志を悟るようになり彼のその後の生き方は大きく変わった。彼は心の中で常にハンセン病患者を嫌っていたが、「おまえの忌み嫌っているものこそ甘美な喜びとなる」との声を聴いた。馬で通りかかると病人がいた。彼は無意識で馬から降りその手に接吻した。すると何とも甘美で幸せな悦楽で満たされた。また次の日病院の門をたたき中に入り取り囲んだハンセン氏病患者一人一人の手に接吻した。奴隷であった自分が解き放たれたのだ。またある時荒れ果てた小さな聖ダミアノ教会の聖十字架像に祈っている時「行って天主の家を建て直しなさい」という声を聞くと、方々の打ち捨てられた教会を修復するため必要な多額の資金をつくるため、家の織物を馬に積み市場に運び売り払うとその金を司祭に渡そうとした。司祭はそれを訝しく思い断ったがフランシスコがこの教会に住むことを許した。こうしたことで父はさらに厳しく彼を叱責し、ついに彼は親に頼ることをやめなければと思い自立を決意した。1207年4月、アシジのグイド司教や公衆の前で家督を放棄することを誓い、着ていた衣服を脱いで父の足下に置きあり金すべてをその上に乗せて「あなたの物をすべて返します」と父に言った。「今まで父と呼んでいた人はもう父と呼びません、天の御父のみを父と呼びます」と言い彼は裸足で粗布をまとい腰に縄を巻いた。イエスの生き方に従ってイエスの足跡をたどり始めた。父は彼を呪ったが、食事は鉢を手に持って托鉢して恵んでもらった。
回心
聖フランシスコ聖堂 アシジ
回心したフランシスコは修練期をサン・ダミアーノで過ごし、彼に共鳴した弟子が3人4人と集まり、1208年(26才)頃からイタリア各地を回り民家や教会の軒先や洞窟などで夜を過ごし食べ物を恵んでもらい宣教を始めた。ポルツィウンコラ Porziuncola(サンタ・マリア・デッリ・アンジェーリ Santa Maria degli Angeli 教会、これ以後ここはフランシスコにとって最も重要な場所になった)の打ち捨てられた教会を修復し同志との活動の拠点とした。1209年2月14日ミサで神から啓示を受けた。「行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。財布の中に金、銀や銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、靴も杖も、持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。どの町どの村に入っても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっていなさい。その家に入ったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。」(マテオ福音書10章 7~13節)に従って生活しなさいとの啓示である。「主の平和があなたにありますように」と言いながら、使徒フランシスコとして裸足で百姓の衣をまとい縄を腰に巻き頭巾を背中につけその日の糧のみを托鉢で得ながら各地を巡り市民が理解できるイタリア語で人々の回心を呼びかけた。世俗化し霊的・精神的にも堕落したキリスト教に危機感を持ち、また物的にも混乱の世で荒廃した教会を本来のキリスト教会再興のため働いた。彼自身と同志は現世的な贅沢と快楽を避け一切の私有物を持たず清貧、謙遜、忍耐、服従の生活を貫いた。
フランシスコ会 Ordo Fratrum Minorum (OFM)
彼の考えに同調した仲間の集団を Ordo Fratrum Minorum(小さき兄弟団)と名付け、1210年(28才)会員が12人になると彼らはローマに赴いた。その身なりから教皇庁へ入るのは困難であったが偶々ローマに来ていたアシジのグイド司教からウゴリーノ枢機卿を介して遂に教皇イノケンティウス3世に謁見することができた。1210年4月16日、教皇は「この者こそ教会を立ち直らせる聖なる男だ」と見定めたうえフランシスコには説教者としての資格を与え回心を述べ伝えるよう命じ、同志11人の兄弟には彼に服従する誓いをたてさせて修道会としての活動が認められた。
聖フランシスコ教会の聖域にある回廊
ポルツィウンコラの小聖堂(4世紀に建てられ130年以上も打ち捨てられ荒廃していた)を拠点にして会は徐々に拡大し、1217年には、国外にも宣教が始まりヨーロッパ中から入会者が5000人集まる。ウゴリーノ枢機卿からは庇護者として指導、助言が与えられ会はさらに大きく発展していった。
一方、同じ時期アシジの貴族の娘キアラ・オフレドゥチオ Chiara(Clara)Offreduccioは親の決めた結婚をすることが決まっていたが、サン・ルフィーノ聖堂でフランシスコの説教を聞き彼の思想に共感し結婚の決心を変え裕福な生活一切を捨て1212年3月18日(18才)家を出てポルツィウンコラへ来て粗布の修道服に着替えフランシスコに従うことを誓った。清貧と謙遜、祈りと労働を旨とする生活に入り手仕事など自給自足の生活をして貧しい病人たちへの奉仕を始めた。1215年フランシスコの命により修道院長に就いた。これがクララ会、フランシスコ会第二会(女子部門の修道会)である。グイド司教から提供されたサン・ダミアノ教会を拠点にして「貧しき貴婦人たち」が発足する。
1211年~1212年フランシスコはイタリア各地に行き、ローマでも説教をするたび入会者が出た。"Ubi caritas Deus ibi est" (愛のあるところ、主 まします) と説き、ボローニャ、フィレンツェ、ピサにも行くと人々は彼を聖人のようにあつかい教会の鐘が鳴り渡るなかオリーヴの枝を振り迎えるようになった。それでも彼は謙虚で主のみに仕え伝道した。このころ小鳥たちにも説教をした。「主は、おまえたちを種まくことも紡ぐことも織ることもなく生きさせている。ただ主を褒め賛美しなさい」と。フランシスコはイスラム世界へも宣教を試み、十字軍に従って剣の代わりに福音書を持って1209年から1212年(27~30才)シリアに、1214年にかけてはモロッコへ、1219年(37才)、エジプトに渡りスルタンにキリスト教への改宗を勧め十字軍との戦いを終わらせようとした。このスルタンは臨終の際密かに洗礼を受けたといわれる。さらに聖地エルサレムの巡礼へ向かおうとするが、その途中本部から帰国の要請を受けてイタリアに戻った。
本部では兄弟団が拡大するにつれ会の基本路線をめぐる対立が広がっていた。フランシスコの創った規律が厳格すぎるというものと、さらに厳しくしようとする双方の意見の対立である。フランシスコの仲介によって、修養期間を終えたものにのみ入会資格を与え、在俗会員として活動する者のために第三会も作られた。
隠遁生活と聖痕
現在のラ・ヴェルナの修道院
1220年(38才)にはカッターニに会長職を譲り隠遁生活に入るとフォンテコロンボの棲み家で会則の改訂に取りかかった。それは1223年の総会で承認され、教皇からも承認され「認可された会則」となった。これ以後フランシスコは数人の仲間と祈りと黙想の生活に入る。
1223年(41才)彼は馬小屋を実際の生きた動物も使い生誕の記念として祝い、これが現在まで行われているクリスマスの馬小屋飾りとなっている。
1224年、彼を支援するカッターニ伯爵 Orlando di Cattani から贈与されたラ・ヴェルナ La Verna の山で森や洞窟にこもり静寂と孤独の中で黙想の生活を送った。彼にとってラ・ヴェルナ山は清く、天使の山でありそこでの祈りはますます深まっていった。彼がキリストの十字架の苦しみを自分にも味わわせて下さいとの祈りが極限に達すると天使が現れた。そして最後に、激しい痛みとともに釘のようなものが手足を貫き、右の脇腹には槍で突かれた傷が現れた。この聖痕はその後ずっと痛み続け弟子たちに隠していたが滴る血から感づかれ手当を受けるが金曜日にはそれをも拒んだ。彼はキリストとの完全な一致によって魂の平和ととてつもない歓びを覚えた。
1224年体力は日に日に衰え9月30日、もう歩くことできずロバでラ・ヴェルナ山を下り、11月半ばポルツィウンコラに着くとすぐに病を押して布教の旅に出る。らい病人の世話をして奇跡をおこし癒した。 患っていた眼病が悪化するが医者にも見てもらうことを拒否し殆ど盲目になっていた。1225年この頃『太陽の賛歌』を創る。風や雨が入り夜は鼠が這いまわるそのようなひどい粗末な小屋で病に臥せっている時でも彼の心と精神は平穏で平和と喜びに満ちていた。『太陽の賛歌』はこのような状況の中で歌われたのだ。
その後、再び各地を回るが、体力も徐々に衰え始めていった。キアラのサン・ダミアノ教会に移りしばらく彼女の看病を受ける。教皇から遣わされた医師から治療を受けるが回復せず、彼は遺言を書いた。歩くことも困難なため担架でポルツィウンコラへと運ばれた。世間ではフランシスコは聖人だとして崇敬の念はますます高まっていて、彼がポルツィウンコラに運ばれると市民たちが集まり「聖人が来た!」と叫び手に手にオリーヴの枝を振りながら迎えた。そして1226年10月3日着ていたものを脱がせてもらい地面に裸で横たわり、3日土曜日の夕暮れ方、自ら詩編 141を歌いはじめた。そしてしばらくその歌が続き沈黙が来たとき彼の命は尽きた。44才であった。この時彼の友達である雲雀の群れが集まり囀り始めた。遺骸はサン・ジョルジョ教会に葬られた。死後わずか2年たらずの後1228年7月グレゴリオ9世によってフランシスコは列聖された。総長エリアの求めに応じて建てられることになった聖フランシスコ聖堂が1230年に完成するに合わせて彼の棺はその地下聖堂に安置された。
太陽の賛歌
フランシスコにとって、全ての被造物が兄弟であり姉妹である。彼自身それらを通して、またあらゆる被造物と共に、そのすべてを創造された神を褒め讃えている。
いと高き全能の主よ
賛美と栄光と誉れとすべての祝福はおん身に
いと高き主よ これらはみなおん身にのみ帰すべきもの
実におん身のみ名を呼ぶにふさわしき者
この世にひとりとてなし
おお 讃うべき わが主よ
すべての被造物によって
わけても兄弟なる太陽によって 太陽は昼をつくり
主は それによってわれらを照らす
そはなんと麗しくなんと大いなる輝きを発することか
いと高き方よ
それこそはおん身のみ姿を宿す
おお 讃えられよ わが主よ
姉妹なる月と無数の星とによって
おん身はそれらを天にちりばめ
光さやかに気高くうるわしく創られた
おお 讃えられよ わが主よ
兄弟なる風と澄んだ空気と雲と晴れた空と
あらゆる天候とによって
おん身はこれらで創られた全てのものを支え給う
おお 讃えられよ わが主よ
姉妹なる水によって そは益多く謙虚にして尊く清らか
おお 讃えられよ わが主よ
兄弟なる火によって おん身はこの兄弟で夜を照らしたもう
火はきわめて麗しく喜ばしく力強くたくましい
おお 讃えられよ わが主よ
われらの姉妹母なる大地によって 大地はわれらを育み培い
種々の草の実と色とりどりの草花を生み出す
おお 讃えられよ わが主よ
おん身への愛のためにゆるし病いと苦しみを耐え忍ぶ者によって
幸いなこと終りまで
Hymn of the Sun
Most High, omnipotent Lord
Thine are the praises, the glory and honour, and all the blessings.
They belong to Thee alone, Most high,
and no man is worthy to name Thee.
Praise be to Thee, my Lord,
with all thy creatures, above all brother sun who illuminates the day.
And he is beautiful and radiates with great splendour.
Of Thee, Most High, he represents the importance.
Praise be to Thee, my Lord,
through sister moon and the stars.
In the sky, Thou has shaped them with clarity, precious and beautiful.
Praise be to Thee, my Lord,
through brother wind and through the air and the clouds,
and the fair and all other kinds of weather,
by which Thou givest sustenance to all Thy creatures.
Praise be to Thee, my Lord,
through sister water, who is very useful and precious and chaste.
Praise be to Thee, my Lord,
through brother fire, by whom Thou illuminest the night;
and he is beautiful and cheerful and sturdy and strong.
Praise be to Thee, my Lord,
through our sister mother earth,
Who sustains and governs us and produces a multitude of fruits
with coloured flowers and herbs.
Praise be to Thee, my Lord,
through those who forgive for the love of Thee,
and endure sickness and tribulation.
Blessed are they who suffer peacefully for
by Thee, Most High,
they shall be crowned.
Praise be to Thee, my Lord,
through our sister death of the body,
From whom no living human can escape.
Woe to those who die in mortal sin.
Blessed are those who find themselves in thy most holy will,
for second death cannot harm them.
Praise and bless my Lord,
and thank him and serve him with great humility.
Amen
詩編 141
エホバよ 我 汝を呼ばふ
願わくは 速かにわれに来り給へ
われ 汝を呼ばふとき わが声に耳をかたぶけ給へ
われは 薫物のごとく わが祈りをみ前に捧げ
夕の供へ物の如くに わが手をあげて み前に捧げんことを願ふ
エホバよ 願わくはわが口に門守をおきて
わがくちびるの戸を守り給へ
惡事にわが心を傾かしめて 邪を行ふ者とともに
悪しきわざに あづからしめ給ふなかれ
かれらの旨きものを 喰らはしめ給ふなかれ
義者 われを打つとも 我はこれを愛しみとし
その我をせむるを 頭の油とせん
わが頭はこれを辭まず
かれらが禍害に遭ふときも わが祈りは絶へじ
その審士は はほの崕になげられん
かれら わがことばの甘美によりて 聴くことをすべし
人 土を耕しうがつがごとく 我儕の骨は墓の口にちらさる
されど 主エホバよ わが目はなほ汝に向かふ
我 汝により頼めり
願わくは わが霊魂をともしきままに 捨ておき給ふなかれ
我をまもりて かれらが我がためにまうくる羂と
よこしまを行ふものの 機とをまぬかれしめ給へ
我は 全くのがれん 悪しきものを おのれの網に陥らしめ給へ
Psalm 141
Lord, I cry unto thee:
make haste unto me; give ear unto my voice,
when I cry unto thee.
Let my prayer be set forth before thee as incense;
and the lifting up of my hands as the evening sacrifice.
Set a watch, O Lord, before my mouth;
keep the door of my lips.
Incline not my heart to any evil thing,
to practise wicked works with men that work iniquity:
and let me not eat of their dainties.
Let the righteous smite me;
it shall be a kindness: and let him reprove me;
it shall be an excellent oil, which shall not break my head:
for yet my prayer also shall be in their calamities.
When their judges are overthrown in stony places,
they shall hear my words; for they are sweet.
Our bones are scattered at the grave's mouth,
as when one cutteth and cleaveth wood upon the earth.
But mine eyes are unto thee,
O God the Lord: in thee is my trust;
leave not my soul destitute.
Keep me from the snares which they have laid for me,
and the gins of the workers of iniquity.
Let the wicked fall into their own nets, whilst that I withal escape.