日本キリスト教 ~弾圧からの復興~
迫害の歴史
1587年 | (天正15年) | バテレン追放令 豊臣秀吉は織田信長の継承者としてキリスト教を容認していたが、宣教師の退去を命じた。しかしこれは徹底した宣教師追放令とはならず、側近にもキリシタンがいたが咎められることはなかった。 |
1593年 | (文禄 2年) | フランシスコ会士ペトロ・バプチスタ秀吉に謁見。都での宣教許す。 |
1594年 | (文禄 3年) | 都に聖マリア教会設立。 |
1596年 | (文禄 5年) | 秀吉は改めて厳しい禁教令を出す。 |
1597年 | (慶長元年) | 秀吉最初の処刑行う。都で捕えられたペトロ・バプチスタ宣教師含む26人のキリスト教徒が長崎で処刑された。日本26聖人の殉教 |
1603年 | (慶長 8年) | フランシスコ会士 ルイス・ソテロ 来日。家康、秀忠に謁見伊達正宗の領地で布教許される。 |
1612年 | (慶長17年) | 江戸幕府が禁教令を発した。 教会の破壊、布教の禁止。 |
1613年 | (慶長18年) | さらなる禁教令発布。キリシタンの捜索、離教しない者を抹殺、処刑が始まる。 |
1614年 | (慶長19年) | 宣教師96名、高山右近、内藤如安らマニラとマカオへ追放。 |
1622年 | (元和 8年) | ソテロ長崎で捕えられる。 |
1624年 | (寛永元年) | ルイス・ソテロ 肥前大村で処刑され殉教する。 |
1639年 | (寛永14年) | ペトロ岐部(1587年~1639年)と187人の処刑行われる。 |
1790年 | (寛政 2年) | 浦上一番崩れ(検挙事件) キリシタンが訴えられて取調べを受けるが後に放免。 |
1842年 | (天保13年) | 浦上二番崩れ 多数の者が密告により捕えられるが後に釈放。 |
1856年 | (安政 3年) | 浦上三番崩れ キリシタン捕えられるが拷問の後キリシタンとせず異宗として釈放。 |
1865年 | (平治 2年) | フランス人居住区内の南山手に大浦天主堂が建てられる。 それから一月後、プティジャン神父のもとに信徒現れる。 その一人の名はイザベリナ・ゆり。その後教会には秘密裏に信徒が次々やってきてミサに与かり神父の指導を受けるようになった。当時長崎や五島その近辺では5万人の隠れキリシタンがいたと言われている。 |
1867年 | (慶応 3年) | 浦上四番崩れ 大規模な弾圧が起きる。浦上の信徒が仏式の葬儀を拒んだため発覚。秘密の礼拝所に役人が踏み込んだときロケーニュ神父がいたが「早く逃げろ」の声で身を隠した。信徒68人が一斉に検挙、拷問を受ける。 |
1868年 | (慶応 4年) | 逮捕された浦上の信徒に改宗を迫るが彼らは拒絶し、流罪が決まり主な114人を津和野、萩、福山へ送り、その地で厳しい拷問を受け多数がなくなった。 |
1870年 | (慶応 6年) | 3394人が20藩にあずけられ苦役を強いられる。 |
1873年 | (明治 6年) | 不平等条約廃止交渉の中で新政府は信教の自由を認めざるを得ず、キリシタン禁制は廃止された。バテレン追放令以来270年、1612年の江戸幕府の徹底的な禁教令以来260年あまりにも及ぶ弾圧から開放される。 |
パリ外国宣教会 Missions Étrangères de Paris (MEP )
1653年に設立された宣教会で本部はパリにある。主な宣教地はアジア地域。禁教令下の日本での再布教は非常に困難であった。1838年ローマの布教聖省からの要請を受け他のどの宣教会よりも先に、1844年テオドール・オギュスタン・フォルカード(Théodore-Augustin Forcade)神父が琉球へ派遣された。1858年には幕府は西欧5カ国と修好通商条約を結び外国人居住民のための教会建設を許可した。
その後横浜にセラファン・バルテルミ・ジラール(Séraphin-Balethélemy Girard)神父、長崎にルイ・テオドール・フューレ(Louis-Théodore Furet)神父が着任した。彼の後任の ベルナール・タデ・プティジャン(Bernard-Thadée Petitjean)神父 の時1865年大浦天主堂が竣工した。その直後信徒発見がありその翌年彼は日本教皇代理司教に任命された。その後も日本での パリ外国宣教会 (MEPのフランス語のサイト)による布教は明治から昭和の戦前戦後と引継がれ現在に至るまで日本再布教へ大きな功績を残している。
幕末から明治初期にかけて来日し活躍した宣教師は下記の通りである。
テオドール・オギュスタン・フォルカード神父
Théodore-Augustin Forcade (1816-1885)
1844年に琉球に到着2年間滞在したが、成果を得られず、1846年から1852年まで東京大司教区の名目上の大司教を務めた。その後は中米グアドループに移り、1853年から1860年まで大司教を務めた。フランスへ帰国後はヌヴェールで1873年までカトリック教会の為に尽力し、ベルナデッタ・スビルーの愛徳女子修道会の入会を斡旋。エクスアンプロヴァンスで死去した。
プリュダンス・セラファン・バルテルミ・ジラール神父
Prudence Séraphin-Balethélemy Girard(1821-1867)
1855年2月下記の2人の宣教師と共に琉球到着、1858年から横浜へ来た。初代フランス公使ド・ベルクール De Bellecourt の通訳を務める。
ユジェヌ・エマニュエル・メルメ・キャション神父
Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon (1828-1889)
1855年琉球に到着、1858年日本へ来る。日本語が堪能でフランス駐日公使レオン・ロッシュ Léon Roches の通訳を務める。
ルイ・テオドール・フューレ神父
Louis-Théodore Furet(1816-1900)
1855年琉球に到着、1858年長崎着任。再布教後に最初に着任の長崎の司祭、大浦天主堂の設計者, 1864年完成を見ず帰国。
ジョゼフ・マリー・ロケーニュ神父
Joseph-Marie Laucaigne (1838-1885)
聖女ベルナデッタの生地ルルドの隣り町出身。聖母出現時20歳。堅固な信仰心を持ちパリ外国宣教会の司祭となり、1863年長崎に着任プティジャン神父を助け布教や聖堂建設に携わった。後に司教に任じられる。
信徒発見
1865年3月17日、それは大浦天主堂完成後の1ケ月ほど後のことであった。プティジャン神父 は窓越しに10数人ほどの男女、子供の一団を見つけた。彼らは閉じられた教会の門のまえで、明らかにその様子から敬虔な気持ちをもって中を覗っているのが見て取れた。彼はこの人たちの所へ行って教会の門を開けてあげようとする気持ちを抑えがたく門を開けに行き彼らを招き入れ、自分は祭壇の前で膝まづき祈った。
彼の記録によれば「私は主に、心に響く言葉をかけて私の周りの信徒の心を捕えるようにと願った。」そして祈っていると50から60才位の3人の婦人が彼のすぐそばに来て膝まづき、そのうちの一人が胸に手をあて彼に低い声でこう言った。「ここにいる皆の心はあなた様の心と同じです。」そして会話が続いた。「本当ですか。どこから来たのですか。」「私たちは皆浦上の者です。そこの殆どの者が同じ気持ちです。」そして答えた婦人は直ぐに問いかけた。「サンタ・マリアの像はどこですか。」プティジャン神父 はその時もはや何の疑いもなく、キリシタンの子孫に向き合っているのだと確信したのです。彼は全員を聖マリア像の前に案内しました。あらためて皆が膝まずき一心に祈りました。が彼らは心に満ちた喜びをもう抑えることができずこう言った。「そうです、まさにこれが聖母マリアさまです。見てご覧、彼女の腕の中の神の子イエスさまを。」確かな確信となり、デウスさま、イエスさま、マリアさまについて質問が矢継ぎ早に浴びせられた。そして信徒たちはキリシタンの生活の様子について話し始めた。「12月25日には主イエスの祭りをしていて、この日に彼は馬小屋で生まれ、貧しさと苦しみの中で成長し33歳で人の救いのために十字架上で死にました。丁度今はその苦しみの時です。あなた方もこの儀式をしていますか。」プティジャン はそれが四旬節のことだと理解しこう答えた。「はい、今はその苦しみの期間の17日目です。」
このようにすべての宣教師が宣教活動中ずっと持ち続けていたキリスト教信仰が日本中に浸透するという望みは無駄ではなかったのだ。キリスト教徒であることを表明することが厳しく禁じられていた鎖国の200年以上の間にも祖先からの信仰を忠実に守り通した信徒の子孫がこの19世紀末にも未だいたのだ。その間彼らは秘跡を行い助けとなる司祭もなく、世界から取り残されたまま復帰の可能性もなく、それでもヨーロッパのキリスト教徒と同じ心を持ち続けた。プティジャン神父 は信仰が日本で今も生き続けているのを知り、彼が従うべき道を指し示しているのを見たのだ。彼は先ず大迫害から逃れた信徒が生きた様々な場所を見たり、彼らが受けた洗礼の有効性を確かめ、守ってきた信仰の内容を検証することが必要だった。外国での宣教の責任者はキリスト教的生活の証しを求め、成果を得ようとすることに懸命のあまり実りは少なかったのだ。
先任の宣教師、フューレ神父は琉球そしてそのあと長崎での辛い10年を過ごして失望のうちにフランスへと去った。プティジャン はその少し前にやって来たジョゼフ・ロケーニュ神父(1838-1885)が唯一の同僚司祭として長崎に留まることになった。しかし、彼は信徒発見の事実を努力に報いるために与えられた大きな天からのサインと考えたのだ。やって来る信徒たちが彼に言ったように、浦上には多くの信徒がいて彼らにどのように接触すればよいのか考えた。何よりも彼らに接近することにより生じる政府の怒りを避け、不安を生じさせないためにはどうすればよいか、キリスト教禁教令はいまだ廃止されていなかった。この禁教令を撤廃させるにはどの点までキリスト教世界の西欧各国の支援に頼ることができるのか。
プティジャン神父 とロケーニュ神父は先ず大浦天主堂での信徒発見の事実を秘密にしようとしたが、浦上のみならず長崎近郊でも、また多くのキリスト教徒が迫害時に逃げ込み、後に判明する事だがキリスト教徒の組織ができあがり、子供に洗礼を授け秘かに祈りの集会をしていた五島列島にも知れることになった。 やがて殆んど毎日のようにキリスト教徒のグループが大浦教会に現れ、彼らの所属する教会組織の存在を知らせ、さらなる指導や指示を求めた。ある推計ではその当時この地方の信徒数は5万人程度と言われていた。
ある日五島から一人の信徒が洗礼者(洗方)を伴って来た。彼はロザリオの祈りを、17世紀の習慣であったように永唱ぬきで唱えたうえ、次のような質問をした。あなたたちはローマ教皇を知っていますか?あなた方は独身ですか?洗礼者は答えを聞いて喜んだ。教皇の名はピオ9世です。我々は独身を守っています。彼にとって、再来した宣教師たちの信仰が本物のカトリックであるという最も明白な三つの証明は、マリアへの信仰と、ペトロの後継者であること、そして司祭が独身であることだと思われた。
長崎行政府の責任者は明らかに中央政府の処分を恐れ大浦教会に大勢の人々が集まるのをよくは思っていなかった。彼はついに立ち入りを禁止し、信徒も一般人と同じくそれに従わねばならなかった。彼らは宣教師たちに会いに行くのも断念せねばならなかった。この措置は1866年の終わりまで続いたが、信徒たちは大して心配はしていなかった。司祭たちは組織的に夜も昼も村を訪れ地区ごとに責任者を選び新たな組織作りを行った。間もなく将来へ向けての組織がつくられ、地域での聖職者の養成も考えなければならかった。その必要性から彼らは自分たちで司祭になりたいと思われる3人の少年を選んだ。この3人の少年は最初に初聖体を受けることになった。
明治初期のキリスト教
旧幕府の禁教令は明治に入っても引継がれキリスト教徒に対する弾圧は続いていた。しかしキリシタン弾圧下でも生き延びた信徒の発見が西欧へ伝えられるとローマをはじめ西欧の各地で称賛の声がわきあがり、禁教政策が厳しく非難され諸外国は明治政府に対して繰り返し抗議をし圧力をかけた。このキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大の障害になっていることに留意した政府はついに1873年(明治6年)撤廃に踏み切らざるを得なかった。
プティジャン神父 Bernard-Thadée Petitjean
1829年6月14日~1884年10月7日
パリ外国宣教会宣教師、フランス オータン神学校卒業、1853年叙階 1860年日本入国に先立って先ず那覇に到着。日本語と日本文化を習得。1862年横浜に上陸、1863年長崎に赴任。大浦の外国人居住区のフランス人居住民の司牧が公の任務、大浦天主堂の建設を前任のフューレ神父から引き継ぎ、1865年に大浦天主堂が完成すると間もなく1865年3月17日ちょうど四旬節の時期に10数名の隠れキリシタンがいまだに祖先から受け継いだキリスト教の信仰を持ち続けていることを発見。それ以後、続々と隠れた信徒が来て秘密裏にミサに与かりその他の指導を受けた。大勢の他の者も公に信徒であることを表明するようになり取り締まりは一層厳しくなった。浦上四番崩れで検挙された信徒の救出にも努めた。
1867年教皇の支援を求めてローマに赴き翌年戻る。1868年日本における教皇代理司教に任命される。1873年禁教令が撤廃されると長崎を拠点に布教や教会組織の設立整備、司祭養成、司牧書・要理書の翻訳。なかでもプティジャン版(最初の要理問答 1865年出版以来、告解、ミサ、十字架の道行、ロザリオの祈り、要理、教皇ピオ9世書簡など)を出版する。日本第3代代牧、南日本教区の司教を務める。日本キリスト教復興の指導者、先駆者で功労者。1884年55歳で長崎にて死去、大浦天主堂に埋葬される。
大浦天主堂
テオドール・フューレ神父の設計で天草出身の棟梁 小山秀乃進が建て1865年2月19日ジラール神父により献堂式が行われた。鐘はフランスの信徒たちの献金をもとにル・マンで作られた。創建当時は正面に三つの尖塔を持つ現在のものとは小ぶりのものであった。1879年(明治12年)信者数増加で手狭になったため増改築が行われ、1933年(昭和8年)国宝に指定された。しかし原爆で屋根や壁が崩れ1947年修復工事が始まり1952年完成、翌年国宝に再指定された。正面入り口のマリア像は創建当時に浦上の信徒が募って集めた資金をもとにフランスで作られ1867年長崎に届けられ「日本の聖母」として設置される。