フランシスコ・ザビエル


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ザビエル城

1506年4月7日、スペイン バスク地方ナヴァーラ王国、ザビエル城の領主の5人の末子として出生。6才の時父を亡くし兄弟も家を出たため孤独な少年期を過ごす。彼の篤い信仰と神への信頼は強く困難に立ち向かう精神力を持ち続け情熱と喜びをもって旅を続けることが出来たのは幼少期の経験からきたものである。

聖職者をめざしパリへ向かう。パリ大学で知り合った最良の友人であり後のイエズス会 の指導的な人物で、教師でもあった15才年上のイグナチオ・ロヨラから大きな感化をうけた。彼の計画した宣教会をつくるという考えに同調して7人の仲間と1534年(27才)にイエズス会を結成した。

1540年教皇から正式に認められ宣教任務を受けると、ポルトガル王の支配する植民地での布教へ向けてリスボンから出航した。1542年(35才)困難を乗り越えてカメリーノ神父、フランシス・マシーニャスを伴いインドのゴアへたどり着いた。ここは当時のポルトガル王国のアジアでキリスト教徒の住む大きな都市として発展し、既に人口は30万に及び東洋での貿易とキリスト教拡大に大きな力を持っていた。

行く先々で住民の風習に習い彼らの中で暮らすなかで宣教した。この10年の間に何千人も改宗させた。さらにマラッカで知り合った日本人ヤジローから日本のことを聞きそこへ行きたいとの思いを強く抱く。そしてトルレス神父、フェルナンデス修道士、ヤジローとともにマラッカを船出しモルッカ、モロタイ島を経て日本の鹿児島へ上陸したのは1549年8月15日(42才)であった。この日は丁度被昇天の祝い日にあたり、ザビエルは日本を聖母マリアに奉げた。


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ザビエル鹿児島滞在記念碑

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ザビエルとヤジロー

鹿児島では島津氏の保護を受け布教は順調に進んだ。鹿児島に1年ほど滞在した後平戸、山口をへて京に向った。ザビエルは都に上り天皇から宣教の許可を得、都を拠点にキリスト教をひろめることが大きな夢であった。しかし戦乱で荒廃した都では何もなし得ないと失望し、10日あまりの滞在後都を後に引返した。余儀なく計画を変更し、平戸を経由し山口に行き大内義隆から住まいを与えられ布教を始めた。山口では特に上級武士の多くが改宗し、その彼らから協力を得て布教は順調に進んだ。その間700名ほどに洗礼を授けた。ザビエルがもたらしたキリスト教によって、日本人は唯一絶対なる神の存在、倫理観、霊魂の救いと永遠の生命と云う全く違う価値観と出会った。

ザビエルは日本での布教をあきらめたわけではなく再度の来日を望みながらも中国へも行きたいと考えていた。1551年9月ポルトガル船が行き来する豊後(大分)に行く。準備を整えるため日本を去りいったんゴアまで引き返した後再び中国へ向かおうとするが、外国へのすべての門戸が閉ざされていた中国本土へは上陸が許されず広東の上川島(サンシャン島)に上陸、機会を覗ううち急病にかかり急ごしらえの貧しい小屋で看病を受けるうち1552年12月3日46才で亡くなった。死後遺体は一旦埋葬されるが腐敗することなく残り最終的にゴアへ運ばれた。インドでのイエズス会宣教の中心地であるゴアで新しくボン・ジェズ聖堂がつくられるとそこに安置された。

一人の人間が、1542年5月ゴア出発から1552年12月サンシャンで死すまでの10年間にこれほどの大洋を渡り国々を訪れ、多くの信徒(彼が受洗したもの総数ざっと3万人)をつくったのは全く驚愕に値する偉業であり、奇跡でもある。さらにザビエルの人格と知識、宣教師の使命感と広範な行動力によって、その影響力は彼の歩んだ地域全体に及んだ。彼に起った主な奇跡は列聖書類に列挙されているが、 彼はキリスト教の歴史上で最も偉大な宣教師と看做されている。

1622年3月イグナチオと共に教皇グレゴリウス15世から列聖された。


ザビエルの遺体

臨終に立ち会ったのは改宗した中国人アントニーでゴアから同行していた。彼は簡素な葬儀を仕切り、後に遺体を引き取りに来るかもしれないと思い目印を置いて埋葬した。乗って来た船、サンタ・クルス号は翌年の2月までサンシャン島に留まる。船が同島を去るときアントニーは船長に、3か月埋葬されているが遺体の状態を検視されるでしょうかと聞いた。一人の水夫が見たところは棺は石灰で満たされていたが遺体は全く腐敗していない。マラッカへの移送が決定すると棺を乗せ出港し、1553年3月22日マラッカに着、そこで岩に墓穴を掘り土を充たして埋葬された。5か月後ザビエルの友人が夜中に掘り起したところ全く完全な状態を保っていた。これは奇跡だ考えられ、このことがゴアまで聞こえると遺体はゴアに移されることになった。1554年3月16日ゴア着、聖パウロ学院まで行列しそこで3日間展示された。


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ザビエルの棺

1605年ゴアにボン・ジェズ教会が建てられると銀の棺に納められた遺体はそこに移され現在も聖堂内に安置されている。

右腕は1614年イエズス会総長の命で、セバスティアン・ゴンザレスにより切断された。死後60年も経過しているにも係わらず血が滴り落ち「奇跡」に違いないと思われた。この右腕はローマのジェズ教会に安置されている。そして1949年(ザビエル伝道400年記念)と1999年(450年記念)の2回、日本キリスト教布教の恩人で保護聖人である国 日本へ運ばれ展示された。


ザビエルの遺体検証

総督ドン・アルフォンソ・デ・ノローニャは遺骸の公式の医学的検証を命じた。コスマス・サラヴィア博士とアンブロージオ・リベイロ博士、大教区長、さらにアントニオ・ディアス修道士が検証した。コスマス・サラヴィア博士は次のように報告している。私は手で遺骸の四肢を押さえてみた。特に腹部に注意した。腸は正常な位置にある。何の防腐処置もされず人工物も使われていない。心臓に近い左胸の傷を観察し、会の二人に傷に指を入れて見るよう言った。血の付いた指を抜き臭いをかぐと何の異常もなかった。手足と他の部分も完全で肉で覆われ、医学的見解によってもフランシスコが1年半も前に死に1年間土の中にあったとは思えなかった。

アンブロージオ・リベイロ博士は次のように報告した。私は自分の指で足から膝まであらゆる部分を触ってみた。どの部分の肉も完全で本来の皮膚で覆われ腐敗もせずしっとりしていた。膝より少し上の左足外側は指の長さの切り傷あるいは怪我があり何かにぶつけたような跡であった。傷全体の周りには何筋かの血が垂れてじくじくして黒くなっていた。心臓に近い左側には小さな穴が開き何かが刺さったようだ。指を差し込むと空洞だった。ただ、遺骸が墓に長い間入っていたため腸のある部分かと思われる僅かなものが乾いたように思われた。顔を遺体に近付けても死体の臭いはなかった。頭部は中国式の模様織りの枕に乗せてあり首の下に足にあるのと同じような色があせて黒く変色したような血のしみのようなものが付いていた。


ボン・ジェズ教会 ゴア

アントニオ・ディアス修道士はこのように記録している。遺骸を見に来た他のものに手と足それに脚と腕の一部のみを見せた。司祭たちと修道士たちが別の布に包んだ。確かにそれは素晴らしい甘い香りを放っていた。私は自分の手を胃の上に置いてみると窪んではいなかった。死後も内臓は抜き取られなかった。凝固した血の様なものが、柔らかく滑らかで赤みがかっていい匂いのものだった。

上記の双方の記録は日付が1556年で2年半以上検査後である。サライヴァの一番目は1556年11月18日付け、二番目は1556年12月1日付けである。1613年遺骸はイエズス会の本館へ移された。

ザビエルはイグナチオ・ロヨラと共に1622年列聖された。それ以来ザビエルは聖フランシスコ・ザビエルとなりゴアの守護聖人となった。列聖後彼の遺骸は教会の北の翼廊へ移され、霊廟が建設されると現在の場所に安置されている。それはゴアの職人が作った銀の棺に置かれ永久に展示された。三段の台座は1680年に作られ1698年に聖別された。遺骸は絶えず信心深いイエズス会員によって管理され展示されている。

1614年にはイエズス会総長の命によって右腕は切断されローマのイエズス会本部へ運ばれた。


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