1553年(天文21年)
大阪府豊能町で父高山飛弾守ダリオ友照、母マリアの子として生まれる。
1563年(文禄6年)
10歳の時洗礼を受ける。洗礼名は正義の人を意味するユスト。父ダリオがロレンソ了斎に導かれ洗礼を受けると同時に、家族と家臣共々大和の澤城で受洗した。
1568年(永禄11年)
父は摂津高槻の和田惟政に仕え、芥川城主となる。1571年(元亀2年)
和田惟政が討死すると高槻城に移る。
1573年(元亀4年)
和田惟政の子惟長は高山父子暗殺を図るが、右近は首に大怪我を負い奇跡的に回復し、一層キリスト教へ傾倒するようになった。惟長は和田家の生国・近江国甲賀郡へ逃れそこで死した。この事件の後、高山父子は信長から摂津一円の支配権を得ていた村重の支配下に入り、高山父子は高槻城主となる。
1574年(天正2年)
右近摂津余野の黒田氏の娘ユスタと結婚する。高槻に天主堂を建設する。
父友照は50歳を過ぎると高槻城主の地位を右近に譲り、自らは隠居して一信徒として教会のため生る道を選んだ。城内には立派な教会堂が建てられ、宣教師の住居や神学校もつくられた。庭園には花木を植え花で満たし魚の泳ぐ池を造った。そこはキリシタンの祈りと憩いの場であった。また父ダリオと右近らは、寡婦や孤児の生活を助け信徒に愛徳の手本となった。領内のキリシタンは飛躍的に増え教会も20を超えるようになった。
1576年
オルガンティーノ神父を招いて、盛大に復活祭が祝われ1577頃には1年間に4,000人の領民が洗礼を受けた。
1578年(天正6年)
右近が家臣として従っていた荒木村重が織田信長に謀反したため右近はこれを阻止しようとしたが失敗した。右近は村重と信長の間にあって悩み、敬愛するイエズス会員師オルガンティーノ神父に助言を求めた。神父は「信長に降るのが正義であるが、よく祈って決断せよ」と言った。信長に領地を返上することを決め、紙衣を着て信長の前に出頭した。これによって信長は、右近を再び高槻城主としての地位を認めて4万石に加増した。
1581年(天正9年) 巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎えて復活祭を祝う。パイプオルガンの響きのうちにグレゴリオ聖歌が流れた。この年には、領民25,000人中、18,000人がキリシタンとなっていた。
右近生誕地屋敷跡
1582年(天正10年)6月 本能寺で信長が死すと、右近は秀吉の下にはせ参じ山崎の合戦では功績をあげ4千石を加増された。安土城が焼け落ちると安土のセミナリヨを高槻に移した。その後も小牧、長久手の戦いなどに参戦した。右近は人徳があり領民からも、多くの大名にも多大な影響を与え牧村利貞、蒲生氏郷、黒田孝高などがキリシタンとなった。細川忠興、前田利家は信徒とはならなかったものの、キリシタンを擁護した。右近は領民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかったが、彼の知性と品格、慈愛に満ちた人柄に惹かれ領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたとの記録もある。
1585年(天正13年)四国平定に加わり明石に新たに領地を与えられ、船上城を居城とした。明石にも教会をたておよそ3万人の信徒が生まれた。
1587年(天正15年)秀吉の九州平定に参加する。しかし、バテレン追放令が秀吉によって施行されると秀吉からも信任のあつかった右近らキリシタン大名は苦境に陥るが、右近は信仰を守り通すため領地と財産、大名としての地位をすべて捨てることを選んだ。そしてオルガンティーノ神父とともに小豆島に渡り小西行長の庇護の下1年余り過ごした後、有馬晴信の領地肥後で匿われる。
1588年(天正16年)金沢城主の前田利家預けとなり同地に赴くが利家からは客人としての手厚い庇護を受け暮らした。その間能登にも行き教会をたて伝道を行い25年あまり金沢で生き、茶を嗜む茶人として、宣教者として、軍事など諸事にわたる助言者としても活動する。
右近生誕の地
苦難の道行き
1614年(慶長19年)2月1日家康により徹底的なキリシタン禁教令が発布され周囲から棄教の勧めもあるが信仰を捨てず国外追放となる。大坂へ連行されるため、2月15日住み慣れた金沢を1日の猶予しか与えられず着の身着のまま出立した。同行者には右近の妻ジュスタ、娘ルチア、16歳から8歳の孫5人、内藤如安とその妻、子供4人、孫4人がいたが家臣や世話のものの同行は許されなかった。悪路を峠をいくつも越え10日をかけ徒歩で坂本に到着。さらなる幕府の沙汰を待ち1ヶ月坂本に留め置かれる。長崎への連行が決まるとまた徒歩で大坂へ向かった。大坂から船で20日ほど後長崎へ到着した。長崎では西坂の近くに200日ほど拘束された。そこには支援者もいて諸聖人教会での祈りと黙想、霊操に励みミゼリコルディアでの慈善活動をも行い、キリストの福音のままに生きることを目標にした。1597年に正にその場所で殉教した26人の殉教者にも思いをはせたに違いない。マニラ行きの船の手配が整うと1614年11月8日長崎から老朽化したすし詰めのジャンク船で家族や内藤如安らと、1ヵ月余りの過酷な船旅に出航した。その間に4人の者が死に、老齢の宣教師クリターナ師もいた。難民となった彼らは絶えず讃美歌を歌い祈りを唱え、すべてを受け入れる覚悟で喜びに満ち溢れていた。1614年12月21日にマニラに到着した。イエズス会や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから大歓迎を受けた。右近たちが港に入って来ると、市民は岸壁を埋め、歓迎の砲声が響き渡った。彼らは馬車に乗り鐘が鳴り渡る聖堂に着くと、感謝の祈りをささげた。しかし、長い過酷な旅の疲れや急激な気候変化、衰えた老齢の右近は間もなく病にかかる。
右近像
翌年1615年2月3日 臨終に当たって残される家族皆に信仰を持ち続け主のみ旨のままに生きるよう諭し、親族やその地の聖職者、信徒に見守られ息を引き取った。63歳であった。 人々は彼の死をいたみ殉教者として扱い葬儀は総督の指示通り行われ、イエズス会聖堂に埋葬された。
2017年2月
教皇フランシスコは、キリストとその福音に忠実であり続けたユスト高山右近を、現生の地位と名誉と富を捨てて迫害の時代にも信仰を貫いた殉教者として列福された。
現在の高槻教会
聖堂内部
現在の金沢教会