日本26聖人 ~ 殉教者 ~
禁教令と殉教の発端
豊臣秀吉は織田信長に倣いキリスト教を容認していたが、1587年にバテレン追放令を発し宣教師の退去を命じた。しかし徹底した宣教師追放令とはならず、禁止されたのは布教活動であり宣教を禁じる程度のものであった。南蛮貿易の実利を重視した政策上からも限定的なものであったため、宣教師たちの活動を黙認し続けることになった。イエズス会宣教師は冷静に反抗する姿勢を見せず慇懃に振舞っていたのに反し、なおもフランシスコ会宣教師はスペイン領フィリピン提督の力をたてに宣教を続けていた。折しもサン・フェリペ号事件の処理をめぐり秀吉とフィリピン提督とのやり取りでスペインが日本植民地化の野望ありとして彼らの追放を考えた。ついに1596年秀吉は禁教令を出し、1597年ペトロ・バプチスタ宣教師を筆頭に宣教師(スペイン人4人、 メキシコ人1人)や信徒を都で捕えそこから長崎までの道を徒歩で連行し処刑した。
長崎への移送
都と大坂で宣教師、信徒24人が捕縛され都の小川通りの牢獄に連れられた。秀吉の決定は十字架での磔刑であった。1597年1月3日、都と大坂、堺で引回しをした後厳冬のなか長崎へ向かった。途中2名が自ら申出てそれに加わり26人が全行程580Kmにも及ぶ道のりを海を渡るわずかな距離以外連日徒歩で連れられた。
1597年 1月 3日 |
小川通りの牢から出された24人は、耳をそがれ市中引廻しのあと牢へ戻る。 |
4日 |
明け方、牢を出て50Kmあまりを1日で大坂の牢屋まで移動。 |
5日 |
堺に移動。寺で宿泊。 |
6日 |
キリスト教に関心の高かった堺の市民に見せしめに市内引回し。市民は同情的に見ていた。寺泊。 |
7日 |
沙汰待ちのため寺泊。 |
8日 |
沙汰待ちのため寺泊。 |
9日 |
早朝、寺を立ち長崎へ向け出発。大坂着。 |
10日 |
大坂を出立し兵庫へ。 |
11日 |
明石まで。パウロ三木は群衆に説教をしながら歩いた。 |
12日 |
姫路まで、姫路城内の牢屋で泊まる。 |
13日 |
姫路から龍野、相生から有年へ、護送役明石掃部はパウロ三木とも知り合いで、同じキリシタン(ファン明石)として一行を同情をもって護送した。37Kmで有年泊。 |
14日 |
有年から峠の多い難所を越えて片上着、泊。 |
15日 |
片山から岡山へ。備前は宇喜多秀家が治めキリシタンの小西行長とも親しく好意的であった。岡山泊。 |
16日 |
岡山から川辺泊。ここから護送役はキリシタンに敵対的な毛利の役人に引き継がれる。 |
17日 |
川辺から毛利の厳しい監視のもとで神部へ37Km、1泊。 |
18日 |
神部から尾道へ、1泊。 |
19日 |
尾道から三原へ、14歳のトマス小崎はここで都の母へ遺書をしたためた。1泊。 |
20日 |
三原から西条へ38Km、1泊。 |
21日 |
西条から難所の峠を越えて広島へ34.5Km、領主毛利輝元はキリシタン嫌いであった。広島城の牢で泊。 |
22日 |
広島から御庄へ48Km泊。 |
23日 |
御庄から最大の難所の峠を越え連日の長距離で疲労困憊し徳山まで46Km、徳山泊。 |
24日 |
徳山から48.5Km小郡で泊。 |
25日 |
小郡から吉田へ40Km、吉田宿で泊。 |
26日 |
吉田から下関の唐戸まで。下関に至るころにはペトロ助四郎と伊勢の大工フランシスコが自ら願い列に加わっていた。 |
27日 |
唐戸からは渡し船で九州大里まで、そこから歩いて小倉へ行き宿泊。 |
28日 |
小倉から芦屋さらに赤間までの34.5Kmを歩き、泊。 |
29日 |
赤間から和白へ泊。 |
30日 |
和白から志賀島へ行くが船を待つため船宿で宿泊。 |
31日 |
志賀島から船で博多へ、泊。 |
2月 1日 |
博多から唐津の山本へ58Km。ここから最後の護送役はパウロ三木と親交があり彼らに同情的な寺沢半次郎が受け持つ。パウロ三木は彼に刑の執行を金曜日にすること、告解を司祭にすること、ミサに与かれるよう願いでている。泊。 |
2日 |
山本から徳須恵 田中城泊。ペトロ・バプティスタはここで残った修道士に手紙を書いた。 |
3日 |
徳須恵から武雄まで |
4日 |
武雄から彼杵港、船で時津へ 船内で宿泊。 |
5日 |
時津から西坂へ10Km。4000人を超える群衆が西坂の丘に集まっていた。着くと待機していたイエズス会員フランシスコ・パシオ神父が告解を聞く。全員十字架に架けられる。パウロ三木は皆に説教をし、救いのためにはキリスト教を受け入れることを説いた。朝10頃26人は処刑され殉教した。 |
26聖人
26人の殉教は宣教師を通じてすぐさまヨーロッパヘ伝わり、異教の地で信仰を守り通した行いが賞賛された。1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって列聖された。