最初の日本布教 イエズス会

イエズス会の創設
Society of Jesus, Societas Iesu (SJ)


ignacio

イグナチオ・ロヨラ

イグナチオ・ロヨラはキリスト教にとって異教の未知の世界への宣教の必要性を痛感し自身の構想をまとめた宣教会の基本理念を完成させた。1534年8月、パリ郊外モンマルトルの丘(殉教者の祀られている聖なる場所)の聖ドニ教会でそれに賛同した6人の仲間と、司祭ピエール・ファーブル司式のミサにあずかり宣教活動のために一生を捧げることを誓い(モンマルトルの誓い)、イエズス会を設立した。本部はローマにある男子の宣教会。その時設立に加わったのは次の7人 イグナチオ・ロヨラ Ignacio (Ignatius) López de Loyola を中心に、フランシスコ・ザビエル Francisco Xavier、ピエール・ファーヴル Pierre Favre、ディエーゴ・ライネス Diego Lainez、アルフォンソ・サルメロン Alfonso Salmerón 、シモン・ロドリーゲス Simon Rodoríguez、ニコラス・ボバディーリャ Nicolas Bobadilla である。

イエズス会のモットーは「神のより大いなる栄光のために」"Ad Maiorem Dei Gloriam" である。7人の同志は教皇から認可を受けるためパリを立ちローマへ向かい、ヴェネツィアで叙階を受けた。東洋への布教の命を受けインドのゴア行きの宣教師に フランシスコ・ザビエル が選ばれた。以来470年間、同会は知性と強固な精神力、困難に立ち向かう意志と実行力を具えた多くの宣教師を育てた。現在イエズス会員は約2万人、全世界で100以上の国々で宣教、教育、社会正義などで活動している。

イグナチオ・ロヨラについての詳細は 次を ご覧ください。

イエズス会本部の ウエブサイト(英語、西語、仏語)も参照ください。


日本布教の歴史

1539年イエズス会は教皇からに公式に承認され、直ちに教皇自身から東洋宣教の任務を受けた。1541年初めて ザビエル は他の2人と共に、未知の世界へと船出した。喜望峰を廻りモザンビーク、ゴア、モルッカなどを経て各地で宣教しつつ、8年をかけて1549年8月15日困難で厳しい航海の末鹿児島へたどり着いた。

彼が都へ向かう途上山口滞在中ほどんど目の見えない琵琶法師が彼に会いに来て宗門の話を聞くうち深くキリスト教に傾倒し受洗することになった。それが修道士ロレンソである。彼は弁舌にたけ日本語の通訳としてザビエルや他の宣教師に付き添い彼らの代理も務め仏僧と論争して打勝つほどの能力を発揮した。

ザビエル は、日本人に接すると「もっとも優れた理性的な国民」と認め布教拡大の可能性をもった地と考え、本部に宣教師の派遣を求めたため宣教師が次々に送られて来ることになった。ザビエル の詳しい宣教活動については 次を ご覧ください。

植民地化されていない日本での布教は本国の軍事的・経済的な支援が全く無く、宣教師はまずそこの領主から許可を得てその庇護のもと布教することにした。鉄砲が種子島にもたらされて以来大名は南蛮貿易にも関心が高く、有力な大名達からも庇護を受けることが出来た。政治的、社会的にも混沌とした無秩序と不安定のさなかの日本で、宣教師たちの献身的な奉仕、危険や困難に立ち向かう勇気とくじけない忍耐を見て、精神的拠り所を求めていた多くの日本人がキリスト教を受け入れた。大名の中にもキリスト教をまじめに信心し、或いは貿易などの現実的利益を期待して改宗するものもいた。

イエズス会の日本における宣教方針は、その文化と生活様式を尊重すること、信徒にした日本人の中から司祭を養成することであった。宣教師も日本人と共に生活するなかで住民からも容易に受け入れられキリスト教は広まった。


都での布教は困難であった。1559年ガスパル・ヴィレラと修道士ロレンソらは活動をはじめ、1560年四条坊門のあばら家で布教を始めた。運よく謁見できた将軍から保護状をもらいその年の降誕祭には100人の受洗があった。1565年将軍が暗殺されると宣教師ヴィレラとフロイスは堺にのがれた。その頃都には約1000人のキリシタンがいたが活動を続けた。1569年になると信長から宣教師の上洛が許可され、フロイスは二条城で信長に会見すると信長の熱い信頼を得てキリスト教布教は自由に許された。1571年には姥柳町(現在の四条烏丸西北)に南蛮寺と呼ばれる教会が建てられた。都、安土、山口、の他九州でも大名、上級武士に改宗者を得て一般市民にも広がり各地に教会が建設されていった。1580年オルガンティーノは安土に信長より土地を与えられセミナリオをたてた。

秀吉の時代になると1587年にはバテレン追放令が出され南蛮寺は閉鎖翌年破壊命令がでた。しかし都での宣教活動は禁止されたものの緩やかな規制で1591年にはイエズス会巡察師ヴァリニャーノと面会し宣教師の長崎残留を黙認。秀吉配下の大名やその家族、家臣のなかにもキリシタンが多くいた。その後も都、大坂、堺、美濃、尾張、摂津、加賀、津軽など各地で宣教師修道士が巡回を行い活動は続けられた。

キリスト教禁制下のこの時期、フランシスコ会は1593年にペトロ・バプチスタ宣教師(1597年に長崎で殉教した日本26聖人の中の一人)が来日し、ドミニコ会は1602年に宣教師フランシスコ・モラーレスを派遣し日本での布教を始めた。

家康の時代の初期には公然とあるいは密かに教会において宣教が続いていた。1600年のイエズス会の報告では1599年の改宗者4万人、1600年には3万人の受洗があり30の修道院と司祭館、109名の司祭がいてさらに14名が来日した。1611年ころまで平穏に布教ができ信徒総数30万人に達した。これ以後幕府は南蛮貿易とキリシタン政策を変え1612年と1613年の二度の禁教令が出されるとさらに厳しく取締りが行われ、1614年宣教師は追放され、キリシタンは処刑された。この年から長く過酷な迫害と大殉教の時代に入っていく。


イエズス会の宣教師

ザビエルに次いで日本へ派遣され活動を行った主な宣教師

コスメ・デ・トルレスガスパル・ヴィレラルイス・デ・アルメイダルイス・フロイスガスパル・コエリョアレッサンドロ・ヴァリニャーノオルガンティーノ・ニェッキ・ソルディなどのイエズス会員が日本に来て布教活動にあたった。


コスメ・デ・トルレス

Cosme de Torres(1510年 ~ 1570年10月2日)

スペイン・バレンシア出身、1546年モルッカ諸島でザビエルと出会いインドのゴアへ行き司祭となる。ザビエル や日本人ヤジロウと共に日本へ向かい1549年8月15日鹿児島に到着。都へ向ったザビエルと別れてトルレスは平戸に残り、1551年にザビエルがインドへ向けて日本を去ると布教の責任者になる。ザビエルが去る時後を託されて死ぬまで日本に留まり宣教活動を続けた。琵琶法師であったロレンソ修道士などの協力を受けて山口や九州の各地でキリスト教は広まった。山口では6年にわたり布教し2000人の信徒を得た。1556年山口を去り豊後の府内へ移る。

1559年都での布教のためガスパル・ヴィレラ神父らを派遣した。織田信長の支援を受け畿内での宣教は進んだ。1563年には 大村純忠 に洗礼を授け日本初のキリシタン大名が生まれた。1570年6月に新しくフランシスコ・カブラル神父が派遣されると間もなくトルレスは1570年10月2日天草で死去した。


ガスパル・ヴィレラ

Gaspar Vilela (1525年 ~ 1572年)

1525年頃にポルトガルのアヴィシュに生まれであろうと推測される。イエズス会に入会後1551年インドのゴアで叙階、1554年に日本へ出発、1556年イエズス会インド副管区長ヌーネス・バレトとともに九州豊後に上陸し日本での布教を始める。1558年ガーゴ神父にかわり平戸地区を担当し、約1500人に洗礼を授けたが体制を揺るがしかねない事態を恐れた仏教徒と対立し一時府内に移った。1559年危険な山道を坂本から比叡を越えて修道士ロレンソらと都へ入りあばら家を借り布教を始めた。将軍足利義輝に謁見しキリスト教宣教の許可を得て四条坊門に教会を建てた。1565年、義輝が殺されると堺に逃れ、以後は畿内、豊後、平戸、堺などで宣教し、高山右近 父子らを信徒にした。1570年インドに去り1572年ゴアで没した。


ルイス・フロイス

Luís Fróis (1532年 ~ 1597年7月8日)

1532年リスボン生まれ、1541年、9才でポルトガルの宮廷に入る。1548年16才でイエズス会に入会、インドのゴアへ渡り フランシスコ・ザビエル と日本人ヤジロウに出会う。1561年にゴアで司祭に叙階。しばらく各宣教地間の通信事務に当たった。 1563年31才の時横瀬浦に上陸、1564年に平戸から京都に向かった。1565年1月末40日の船旅の後堺に、2月には京都に入る。ガスパル・ヴィレラやロレンソ了斎らに合流しともに活動。1566年正月将軍足利義輝に拝謁、間もなく将軍が殺害されると堺に避難し4年間堺に滞在、1569年大勢のキリシタンが出迎えるなか都に戻る。1576年まで都、畿内の布教長を務める。1569年、彼とほとんど同年輩の織田信長と二条城で初めて会見しその篤い信任を得て岐阜城や安土城などでも18回信長と面会する。

1577年九州豊後に移り、1580年アレッサンドロ・ヴァリニャーノの通訳として、安土城で信長に引き合わせた。1583年イエズス会の活動記録を記す任務に就き、日本各地の風俗習慣、神社仏閣の建築、庭園、歴史、各界の人物の記録を残した。これがいわゆる「日本史」”Historia de Iapam” である。10年近く都で暮らして、1587年7月24日の伴天連追放令が布告されると他の宣教師たちとともに畿内を去り長崎へ逃れる。だが結局秀吉の出した追放令は徹底したものでなく宣教活動も続けられた。1590年、ヨーロッパ派遣から帰国した際天正遣欧使節を伴って再び来日したヴァリニャーノに長崎から同行し、聚楽第で秀吉と会見し歓待された。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに行くが、1595年に長崎に戻り、1597年には『二十六聖人の殉教記録』を書き上げ、その年の7月8日65歳で長崎で没した。


ルイス・デ・アルメイダ

Luís de Almeida (1525年?~ 1583年10月)

1525年ごろリスボンで生まれた。1546年ポルトガル王から医師免許を得て、ゴアからマカオに来た。1552年貿易目的で初めて日本へ、その後日本とマカオ間の貿易で財をなした。 山口で宣教師コスメ・デ・トルレスと出会い、豊後に乳児院を建てた。さらに領主 大友宗麟 から土地をもらい1557年に我が国初の西洋医学による総合病院を建てた。大分では ミゼリコルディア Santa Casa de Misericórdia「憐れみの聖なる家」といわれるキリスト教徒の互助組織を作った。貿易によって得た資金を惜しみなく提供し、1558年には医師教育を始めた。九州での名声を確たるものにして、1566年には五島の領主宇久純定の治療にもあたった。 1580年、マカオで司祭に叙階されると日本に戻り宣教師としても手腕を発揮し知識人たちも改宗させた。1583年10月天草で死去。


ガスパル・コエリョ

Gaspar Coelho(1530年 ~ 1590年5月7日)

ポルトガルのオポルト生まれ。1556年にインドのゴアでイエズス会に入会、司祭に叙階され、1572年に来日、九州で布教をした。1581年に日本地区がイエズス会の準管区になるとアレッサンドロ・ヴァリニャーノによってイエズス会日本支部の初代準管区長に任命された。信長の死後秀吉のキリシタン政策は寛大でありフロイスの通訳で秀吉を訪問したときは大変な歓迎ぶりであった。1583年キリシタンに改宗するものはますます増加しこの年だけで8500人に及んだ。1586年には地区責任者として畿内の視察を行い、3月16日に大坂城で豊臣秀吉に謁見、日本での布教の正式な許可を得た。これから間もなく1587年7月伴天連追放令が出される。1590年に肥前加津佐で没した。


アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

Alessandro Valignano (1539年2月15日 ~ 1606年1月20日)

イタリアナポリ王国の貴族の家に生まれ、パドヴァ大学で法学を学び1566年にイエズス会に入会した。1570年叙階、1571年から修練院で教える。1573年、東インド管区の巡察師になる。1574年3月21日にリスボンを出発し、同年の9月にゴアに到着、管区全域を視察。インドの視察を終えた後1577年9月にゴアをたち10月19日マラッカに来る。1578年9月、マカオに到着、中国での宣教のためにミケーレ・ルッジェーリ Michele Ruggieri が派遣されて来ると、後を彼に任せて1579年7月日本へ出発した。巡察師としての彼の役目は各地の布教地でのイエズス会の活動を視察し問題があれば会の規約を正すなどして解決する権限を持っていた。

1579年7月25日九州の口ノ津に着く。1579年来日後間もなく信長に初めて接見する。1582年まで滞在する間、生活物資は現地調達で賄い、主従関係の厳しい日本の階級社会に合わせて領主や上級武士を信徒にすれば布教は進むことを学んだ。これが「適応主義」と呼ばれる方法でり、自らをその地の文化と風習に適応させるという方法である。1581年、"Il Cerimoniale per i Missionari del Giappone"「日本布教のための儀典書」を記した。彼は当時の日本では人を身なりや外見で判断することを悟り、日本人たちと同じように振舞うべきだと考えた。城での大名との会見の際は彼らは最上の身なりで従者を従えて歩いた。このことが傲慢で贅沢であるとヨーロッパで非難されることにもなったが、日本人からは歓迎され大いなる信頼を得た。

1580年、肥前有馬と近江安土に小神学校(セミナリヨ Seminario)、1581年に豊後府内に大神学校(コレジオ Collegio)、そして1580年に豊後臼杵に入会希望者のための修練院(ノヴィシャド Noviciado)を創設した。

1581年夏、織田信長との安土での最後の謁見では、天守は提灯の明かりで照らされるなか迎えられ、贈られた安土城の屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されることになった。1582年、天正遣欧使節を計画しイエズス会員に伴われた4人の少年たち(伊東マンショ、原マルティノ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン)はヨーロッパへ出発、ヴァリニャーノはゴアまで付き添って行き彼らの帰国する時までゴアに残る。使節団は各地で大歓迎を受け教皇謁見の際にも温かくもてなされた。少年たちは8年にわたりヨーロッパに滞在するうち西欧流の教養を身に着け立派な大人に成長していた。

1590年、帰路ゴアに立ち寄った遣欧使節と合流し再び来日、1591年に青年たち遣欧使節と聚楽第で秀吉に謁見した際、西洋の楽器を演奏し太閤も満悦であった。また初めて活版印刷機を持ち込み、「キリシタン版」とよばれる書物を印刷した。この時の訪問は1592年10月まで続き国内を自由に旅することが許された。

1598年最後の来日、「適応主義」のイエズス会と従来のヨーロッパ方式であるフランシスコ会、ドミニコ会との間に起きていた対立問題の解消に努めた。1603年日本を去り、3年後にマカオで死去した。


オルガンティーノ・ニェッキ・ソルディ

Organtino Gnecchi‐Soldi (1533 ~ 1609年4月22日)

北イタリアのカストで生まれ。22歳でイエズス会に入会した。ロレートの大神学校、ゴアの大神学校で教えた後日本に派遣された。1570年6月18日天草に上陸後、ルイス・フロイスと共に都での宣教を行った。

1577年から30年間都での布教責任者をつとめた。明るく魅力的な人柄から日本人に好かれ布教にも大いに役立った。30年以上日本で衣食住すべて日本人と同じように暮らし日本を深く理解し愛した。オルガンティーノは1576年にともに都に住んでいたフロイスと教会(南蛮寺)を建立。この教会は敷地が狭いため三層にせざるを得ず周囲を見渡すことができるほどの高さで威容を誇った。1580年には安土で織田信長から与えられた土地にセミナリヨを建てた。本能寺の変後安土城は破壊され城下のセミナリオも放棄された。

信長の死後1582年未だキリシタンへの対応は寛大で1583年に大阪城に秀吉を訪問すると歓待を受けた。右近 の城下高槻に新しい土地を得てセミナリオは設置された。1587年に最初の禁教令が出されると、都の南蛮寺は打ち壊された。

オルガンティーノは右近とともに 小西行長 の領地小豆島に逃れた。翌年 右近 が加賀前田家に行くことになると、オルガンティーノは九州に向かった。1591年天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしで再び京都在住をゆるされた。

1597年、日本二十六聖人が京都から長崎へ向かう際に拷問を受けた時には、彼らの遺物を受け取っている。その後長崎へ行くが1609年76才で病死する。


イグナチオ・ロヨラ

Ignacio (Ignatius) López de Loyola

(1491年12月24日 ~ 1556年7月31日)

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イグナチオ・ロヨラ

イエズス会の創立者で初代総長。1491年12月24日スペインバスク地方アスペイティアにあるロヨラ城で出生。13人兄弟の末子、7才で母を亡くす。1506年騎士フアン・ベラスケス・デ・クエヤルの従者となり1517年(26才)より軍人として各地を転戦した。1521年5月20日29才の時戦地で負傷しロヨラ城に帰郷すると、内面的な自己犠牲の生活へと傾いていった。1522年3月25日モンセラートのベネディクト会修道院に篭り苦行と黙想をしているうち、実生活へのこだわりを捨て人々の救霊のため生涯を捧げる決心をした。

1528年36才でパリ大学に入学し神学を学んだ。そこで学生の中にフランシスコ・ザビエルもいた。1534年8月15日42才の時イグナチオと6人の仲間:フランシスコ・ザビエル Francisco Xavier、ピエール・ファーヴル Pierre Favre、ディエーゴ・ライネス Diego Lainez、アルフォンソ・サルメロン Alfonso Salmerón 、シモン・ロドリーゲス Simon Rodoríguez、ニコラス・ボバディーリャ Nicolas Bobadillaはモンマルトルで誓いを立てた。それは「宣教活動への奉仕、服従、清貧と貞潔」であった。


ロヨラ城

1537年同志7人は教皇の認可を得るためローマに向かい、教皇パウルス3世は会の認可を与えた。その年の6月24日、ヴェネツィアに着き彼らは司祭に叙階された。1538年10月 再びローマに来たロヨラは、1540年9月27日教皇パウロ3世からイエズス会の会憲を正式に許可された。会の本部はローマに置かれ彼は総長としてそこに留まることになった。

1548年「霊操」を出版。これは地上のものではなく主キリストにこそ仕ええるべきとの彼自身の霊的回心をまとめ、自身の魂を鍛え試練に打勝つことによって神に近づき神のみ旨を聞き悟ることができるというもの。1554年に会憲を出しイエズス会の組織を定め、教皇への絶対的服従(霊的な教皇の軍隊となり)と自己犠牲を会員の義務とした。彼の座右の銘「神のより大いなる栄光のために」"Ad Maiorem Dei Gloriam" がイエズス会のモットーでもある。さらに1553年から1555年には「自伝」を著わした。




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