日本の宣教に貢献したキリシタン大名



フランシスコ・ザビエルは鹿児島に上陸するとさらに日本語の習得につとめ、直ちに宣教を始めた。まず九州を北上し平戸、山口、都、平戸、山口、豊後を最後にインドへ向かう。



大友宗麟(1530年1月30日 ~ 1587年6月11日)洗礼名:ドン・フランシスコ

豊後の領主、1551年21歳の彼は フランシスコ・ザビエル の初めての来訪を受けた時から彼の人柄、確固とした信仰、宣教への使命感に打たれ領内での布教を許しキリスト教を庇護した。彼自身キリスト教の信仰に深く傾倒し受洗したいと願っていたが周囲の強固な反対などがあり27年後の1578年7月になって洗礼を受けた。南蛮貿易に積極的で南蛮の文化にも関心が深かった。

また、優れた西洋医術を見て、1557年、府内でポルトガル人医師に日本で最初の外科手術を行い、さらに総合病院も作らせた。


大村 純忠(1533年 ~ 1609年4月22日)洗礼名:ドン・バルトロメオ

長崎大村藩主、日本初のキリシタン大名。1562年、横瀬浦をポルトガル人に開放し便宜を与えた。1563年、純忠は家臣とともに コスメ・デ・トルレス神父 から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した。領内のキリスト信徒数は6~7万人に及んだ。

彼の改宗は南蛮貿易による利益を目当てにしたとも言われるが、熱心で敬虔なキリスト教徒であった。1570年にポルトガル人に長崎港を供与し長崎は発展する。1580年、長崎地域をイエズス会に貸与した。1582年、巡察師 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ と会見し、天正遣欧少年使節の派遣に協力した。


有馬晴信(1567年 ~ 1612年6月5日)洗礼名:ドン・プロタジオ

肥前藩主、当初は仏教徒としてキリシタンを迫害していたが、しだいにキリシタンの信仰に傾き1580年に洗礼を受けるとキリスト教を擁護するようになった。1582年大友宗麟や大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣。1587年秀吉が禁教令が出すまで、数万を超えるキリシタンを擁していた。九州大名の中でも南蛮貿易に最も熱心で貿易により大きな利益を上げ、多くの宣教師を支援することができた。1612年南蛮船取引から幕府の不信をかい死罪になる。


結城忠正(不明)洗礼名:エンリケ

山城守、松永久秀の家臣。1563年久秀の命でキリスト教の取調べを行い修道士ロレンソを尋問するが、弁舌家で教義に詳しいロレンソとの宗教論争となりキリスト教に傾倒し始めた。続いて来た ヴィレラ により洗礼を受ける。畿内で最も早くキリシタンとなりキリスト教を保護した。彼の改宗後は妻子家臣にも要理を学ばせ信徒にし、畿内のキリスト教布教は大きく進展した。


福者 高山右近(1553年 ~ 1615年2月4日)洗礼名:ユスト

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高山右近像

千利休の弟子で茶人。ユストは正義(の人)を意味する。熱心なキリスト教徒であった父友照のもと、家族と家臣もほとんどが信徒になっていた。右近も1563年10歳の時洗礼を受けた。

21歳で高槻城主となり城内に天主堂を建立し、墓地、修道院、セミナリヨを設け城下は繁栄した。人格者としての彼の影響を受け領内の大半がキリスト教徒となった。また大名の間でも人望が篤く多くの大名がキリスト教徒となった。細川忠興、前田利家は右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。本能寺の変以後安土城が焼け落ちると安土のセミナリヨは廃棄され新たに高槻に建設された。後に高槻から明石へ国替えとなる。

1587年秀吉によりバテレン追放令が出された。これは厳格なものではなく秀吉の家臣にも小西行長、黒田官兵衛など信徒がいたが追放されることはなかった。しかし仕えるべきは現世の主君よりすべてを司るデウスであるとの固い信仰を持っていた右近は、信仰を守り通すには武士であることをやめなければと決断しすべてを捨て1588年から金沢城主の前田利家の庇護を受け金沢で暮すことになる。25年あまりを金沢で過ごすが、徳川幕府のさらに厳しいキリシタン追放令を受けて1614年信仰を捨てない彼は国外追放となる。長崎からフィリピンへ向けて出国、12月マニラに到着した。当地で既に有名になっていた右近はフィリピン総督フアン・デ・シルバや市民から大歓迎を受けた。しかし、右近はすぐに病にかかり、翌年の1615年2月4日(63才)に死した。
マニラ市により盛大な葬儀が営まれ遺体はイエズス会の聖堂に葬られる。2017年2月 地位や富を捨てて信仰を貫いた殉教者として教皇フランシスコにより列福される。詳しくは次をご覧ください。


小西行長(1558年 ~ 1600年11月6日)洗礼名:アゴスティノ(アウグスティヌス)

1584年、高山右近からの影響でキリシタンとなる。1585年小豆島1万石の領主となる。小豆島ではセスペデス神父を招いてキリスト教の布教を行う。1587年のバテレン追放令の際に高山右近をしばらく島にかくまった。

1588年、九州征伐の功績で秀吉から肥後20万石を与えられ、宇土城主となる。領内の天草には2万3000人のキリシタン、およそ30の教会と60人の司祭いたといわれる。積極的に布教活動を支援した。イタリアから修道士ジョヴァンニ・ニコラオが来て、絵画、銅版画の授業や、聖像、パイプオルガンの製作も行われ、キリスト教文化が栄えた。

関ヶ原の戦では敗軍の将として斬首された。処刑の時司祭が告解の秘蹟を行おうと願ったが許されず。遺体は改めてキリシタンの典礼に従って葬られた。


支倉常長(1571年 ~ 1622年8月7日)洗礼名:ドン・フィリッポ・フランシスコ

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支倉常長 肖像画

1571年、山口常成の子として生まれ後、支倉時正の養子となる。

1609年、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がメキシコ(当時スペインの属領)への帰途難破した際救助し、スペインとの交流が始まった。伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定し、遣欧使節はスペイン人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ Luis Sotelo をともない、常長は180人からの使節団を率いてローマに赴いた。

1612年、浦賀より出航するが遭難して失敗。1613年10月28日再度サン・ファン・バウティスタ号で月ノ浦を出航。その後、一行は太平洋を渡りメキシコに上陸し陸路で大西洋岸のベラクルスに、そこから大西洋を航海し、スペイン・アンダルーシア、コリア・デル・リオに上陸した。1615年1月30日国王フェリペ3世に謁見する。さらに陸路でローマに至り、1615年11月3日にローマ教皇パウルス5世に謁見した。ローマでは日本からの使節として温かく迎えられ貴族に列せられた。帰路もマドリードに立寄り再度フェリペ3世に謁見、使節団は数年間ヨーロッパに滞在した後、1620年9月20日に7年にも及ぶ航海の末帰国した。

こうして大名(の名代)として日本から初めて欧州、ローマへの使節として特務を果たしたが、すでに国内では禁教令により厳しいキリシタン弾圧が行われていることに落胆しつつその2年後に世を去った。




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